地震お見舞いありがとうございます 2005.03.21

院長メッセージ
2005年03月21日

3月20日、日曜日午前10時53分、突然の揺れが九州北部を襲いました。特に私が住んでいる福岡では、震度6。これまで地震の少ない地域だっただけに多くの人がパニックになったようです。私は車を運転していた時でした。信号待ちで停車していたところ突然、荒波に襲われた船に乗っているように車がしばらく左右に揺れました。始めは何が起こったのかわかりませんでしたが、周りの車も同じ様に揺れ、信号機や街路樹も大きく揺れていたので地震だとわかりました。車に乗っていたので、家にいた人よりも揺れの感じ方は小さかったと思います。

しばらくして、TVの報道を見られた友人や遠方の知人の方々からお見舞いのメールや電話をたくさん頂きました。幸い、私もクリニックも自宅もほとんど被害はありませんでした。ご心配頂き、本当にありがとうございました。

すぐ近くに住んでいる兄や友人は、怪我はなかったものの「家の中は散乱している」と言っていました。大きな被害を受けられた方も多いようです。近くの体育館には玄海島から避難してこられた方々がたくさんおられます。これから私たちが出来ることを力を合わせてやっていこうと思います。

今朝は大きな余震で目が覚めました。すぐに父の遺影の前に行って手を合わせました。
生前に父がいつも言っていたことを思い出しました。
「いつまでも、あると思うな親と金。ないと思うな、不時の災難」

まだまだ余震を感じます。これ以上大きな災害が起こりませんように。

おだいじに” 2005.03.06

院長メッセージ
2005年03月06日

3月というのに九州でも雪が積もりました。春はそこまで来ているのに、もう少しだけ冬が居座っていたいのでしょうね。

 今年は風邪やインフルエンザがとても遅くなって流行しました。めったに風邪をひかない私も、とうとう風邪のウイルスに負けてしまいました。いつもは1~2日くらいで良くなるのですが、今度の風邪はとてもしつこく、しばらくグズグズしていました。咽頭痛に始まり、鼻づまり、声枯れ、微熱、倦怠感。。。結構辛いものでした。患者さんに移してはいけないと、大きなマスクをして診療をしていました。そんな姿をみて、診察室から出られる患者さんたちから「先生もおだいじにしてくださいね。」と温かいお言葉を頂きました。

 いつも使っている “おだいじに”の言葉ですが、逆に患者さんから言っていただくと恥ずかしいような、照れくさいような、くすぐったいような。。。
風邪をひいて、この言葉の中に含まれた患者さんたちからの思いや温かさをしっかり感じることが出来ました。本当にありがとうございました。
ご心配おかけしましたが、ようやく元気になりました。これからは風邪をひかないよう、気をつけますね。

”神頼み” 2005.02.14

院長メッセージ
2005年02月14日

立春も過ぎ、ようやく寒さも峠を越えたようです。この時期になると決まって訪れるところがあります。学問の神様で有名な“太宰府天満宮”です。 

これまで私は何度も“神頼み”に行き、ずいぶん助けていただきました。“受験”というシステムは誰しもが好きなものではありませんが、夢を叶えるための一つの関門のようなものだと思います。今になって思うと私も何度かこの関門を通ってきましたが、結構辛いものでした。 

もう20年以上前になりますが、私が大学受験の日は雪が降っていました。母は一人で太宰府天満宮に行っていたことを、合格発表の日に知らされました。合格したのは神様と母のお陰だったんですね。 

私の患者さんの中には、毎年数人の受験生がいます。「彼らがこの関門を無事通過することが出来ますように」と神様にお願いしてきました。 

天満宮本殿前の“飛梅”のつぼみが綺麗に開きはじめていました。春はもうすぐそこまで来ています。ガンバレ受験生!!  

*飛梅*  
太宰府天満宮は菅原道真公を祭る神社ですが、公は幼少の頃から庭の梅が大好きでした。公は57才で九州に左遷されることになります。京都を出発の時、庭の梅に別れを惜しまれて、 

「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
あるじなしとて春な忘れそ」と詠われました。その梅が後に公を慕い飛び来って、現在御神木として伝わったものだそうです。
 白梅ですが、強さと清らかさを感じました。

”年の初めに” 2005.01.17

院長メッセージ
2005年01月17日

あけましておめでとうございます。 成人の日も終わり、そろそろお正月気分も終わったころでしょうか?今年は北九州(小倉)では、元旦から雷が鳴り、雪が積もり、とても寒いお正月でしたが皆さんはどんなお正月を過ごされましたか? 我が家では、私が子供のころからお正月の”ならわし”がありました。元旦の朝、家族が食卓を囲み、父から一人一人に”おとそ”を注がれます。その後、まず父から”今年の抱負”についての話があり、ついで一人一人が”今年の抱負”を述べます。私は子供のころは「今年は自転車に乗れるように頑張ります」とか「プールで25m泳げるように頑張ります」とか言っていました。毎年、年の初めに目標を家族の前で発表してそれに向かって努力する。。。今考えると、小さいころから父が導いてくれた人生の姿勢がここにもあったのだと思います。 3年半前に父が亡くなってから、いつの間にか我が家のお正月にはこの風習はなくなってしまいましたが、私は毎年、自分の日記帳(3年日記)の最後のページに”今年の目標”として、10個のことを掲げるようにしています。少し欲張りですが、毎年達成できるのは約半分です。できなかったことに関しては反省して、翌年に繰越になります。そうやっていくうちに何年も前から目標としていることが数年かかって達成できることもあります。 今年も10個の目標を掲げました。さあ、このうち今年はいくつ達成できるのでしょうか?一つでも多くのことが達成できるよう、この1年もがんばります。皆様にとって今年も良い年でありますように。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。

”雪だるま” 2005.01.17

院長メッセージ
2005年01月17日

2004年12月31日、福岡ではめずらしく大晦日に雪が積もりました。休日だったので、いつもより遅く起きた私は、一面の銀世界に大喜び。

昼頃にクリニックに行くと、玄関の前に大きくてかわいい”雪だるま”がありました。近所の子供が嬉しくて作ってくれたのだろうと思っていましたが、なぜ私のクリニックの前に?と疑問をもちながら年を越しました。

先日、入院になった患者さんを紹介先の病院にお見舞いに行きました。
その方は72歳の糖尿病の男性。昨年から咳が続き、胸部レントゲンで肺に影が見つかったため、専門の病院を紹介し入院。精密検査をおこなったところ”肺癌”と診断されました。”咳”以外には自覚症状がないため、年が明けてから治療を始められるとのことで年末年始は自宅に外泊されていました。

ちょうど外泊中の12月31日の朝、「起きたら雪が積もっていたので、いいアイデアが思い浮かんで、暗いうちに家を出たんですよ。40分歩いて先生のクリニックまで行って、一人でせっせと雪だるまを作ったんですよ。ほら、よくできているでしょ?」と嬉しそうに写真を見せてくださいました。
「こんなにいいチャンスはもう2度とないかもしれないからね。」と。。。

雪だるまの犯人がSさんだったなんて。。。
私はこみ上げてくる涙を必死にこらえながらその写真を見ました。

Sさん、1日でも長生きしてくださいね。
この写真、私の一生の宝物です。

”願い事” 2005.01.12

院長メッセージ
2005年01月12日

昨年12月のホノルルでの話です。

12月13日、マラソンの翌日、私たちはHawaii最後の夜をサンセットデイナークルーズで楽しみました。
地平線に沈む真っ赤な夕日を見た後、ホノルル市街が一望できる”タンタラスの丘”ですばらしい夜景を見ることができました。
それに加えて、なんとラッキーだったのでしょう!その日は”ふたご座流星群”がとてもよく見える日だったのです。

満天の星空を眺めているとその中から、スーッと。。。。。。気がついたときは流れていました。なかなかお願い事ができません。
もう1個、もう1個と欲張っていましたがそのうち出発の時間になり、バスに戻りました。
先にバスに戻っていた母に「すごく綺麗だったね。何かお願い事した?」ってたずねたら、「満足、満足。この年でこんなに幸せだもの。これ以上お願いすることなんて何もないよ。」と満面の笑みでした。

ホテルに帰ってからも私は一人テラスでしばらく星空を眺め、ホノルル最後の夜を満喫しました。
お願いしたいことがまだまだいっぱいある私は、欲張りなのでしょうね。。。。。

仲間 2004.12.19

院長メッセージ
2004年12月19日

ただいまっ!

今年もまた南の島“Hawaii”で、夢のような6日間をすごしてきました。

もちろん目的はホノルルマラソンです。今年は7人のフルマラソン組と3人の10kmウオーク組の10人の老若男女で賑やかに福岡空港を飛びたちました。

12月12日朝5時、ホノルルの街に豪華な花火が打ち上げられ、2万5千人の歓声と共にそれぞれの42.195kmが始まりました。私は3回目の参加ですが、これまでで一番練習不足だったので、とにかく完走を目標にスタートを切りました。始めは一緒に参加したAiちゃんとクリスマスイルミネーションを楽しみながら走っていましたが、5kmをすぎたあたりからそれぞれのペースで走りました。練習不足にもかかわらず、15kmあたりまでは、昨年より足が軽く調子よく走れました。昨年はダイアモンドヘッドのあたりで綺麗な朝焼けを見ることが出来ましたが、今年の風景は違いました。まだうす
暗く、昨年よりペースが速いことを実感しました。20km位から、始めにぺ―スをあげすぎたことを後悔するくらい足が重くなってきました。ちょうどその頃は早いランナーとハイウェイですれ違います。一緒に参加したメンバーを必死に探しながら走りました。途中、O先生とヒロとすれ違って元気をもらいました。おり返しを過ぎて25kmを過ぎると今度は私より遅いランナーとすれ違います。Naoちゃんと隊長とすれ違い、今度は私が声をかけました。苦しい時に仲間の顔を見るだけでも俄然元気が出てきました。35kmあたりからは、もう休もうかと何度も思いましたが、前日聞いた長谷川理恵さんの話の中で「42.195km、苦しくないはずないですよ。皆苦しいんです。でも皆頑張ってるんです。私一人じゃないんです。」っていう言葉を思い出して、ゴールで待っていてくれている仲間たちのことを思いながら、とにかく足を止めずに走りました。40kmまで来たときには嬉しくて汗と涙を流していました。ゴール前でO先生が「いいタイムですよ!」って声をかけてくださって本当に嬉しかった!ゴール直前では、母がしっかりカメラのシャッターを切ってくれました。昨年より36分タイムを更新して、5時間6分でゴールすることが出来ました。42.195kmの向こうには、また新しい感動が待っていてくれました。一緒に行った仲間も全員それぞれの目標タイムで完走しました。この感動を大好きな仲間達と一緒に味わうことができて本当によかった!

今年は練習不足だった私が予想外のタイムで完走できたのは、仲間の力のおかげだったと思います。苦しみも楽しみも一緒に走ってくれる仲間がいることは本当に心強くすばらしいことだと今年の42.195kmは教えてくれました。

皆、ありがとう!そしておめでとう!!!

走ること 2004.12.04

院長メッセージ
2004年12月04日

“走ること”を始めたのは、大学2年の頃でした。その頃バドミントン部に入って、部活が終わってからも必死で素振りの練習をしていましたが、やり方がまずかったのでしょう、右手首の腱鞘炎(けんしょうえん)をおこし、ラケットが振れなくなってしまいました。皆と同じ練習が出来ないのが辛くて一人で体育館の周りを走っていました。走っているといつのまにかそんな辛い気持ちを忘れていました。それ以来、何か辛いことや悲しいことがあると、いつのまにか走っている私がいました。汗と一緒に涙を流しながら走ったこともありました。走ることで辛いことを忘れようとしたのかもしれません。

27才の時、肝炎を患ってから、3年間は“走ること”も出来ない時期がありました。今考えると一番辛いじきでした。幸い、治療が効して肝臓は完全に良くなりました。それからは低下した体力を復活するためにウォーキングから始めました。だんだん体力が戻ってきたので、時々5kmのマラソンレースにも参加しました。走ることが出来るようになった喜びと嬉しさでいっぱいでした。
30代後半に、頑張っている1型糖尿病の患者さん達から刺激を受け、ちょうどその頃行った講演先での先生からのお誘いをいただき、フルマラソンに挑戦しようと思ったのです。自信は全くありませんでしたが、少しでも若いうちに自分の体力と精神力を試してみたかったのです。1年間と少しトレーニングを行い、2002年12月ホノルルマラソンに参加、6時間で完走することが出来ました。その時の感動と興奮は今でも忘れられません。ゴールした瞬間に達成感と感動で涙が溢れてきました。と同時に次の大きな目標が広がってきました。

それから2年、今のクリニックを立ち上げることができました。今の私の原動力は“走ること”から学んだのだと思います。上り坂や下り坂、マラソンのレースにはいろいろな坂があります。その時の体調によって同じ坂でも感じ方は違ってきます。でも、どんなに辛い坂であっても、足を前に踏み出せば必ず一歩前に進むのです。これまでの私の人生にもいろいろな坂がありました。これからももっと大きな坂があると思いますが、どんな坂でもマイペースで、楽しみながら走っていきたいと思っています。

いよいよ今年もホノルルマラソンが近づいてきました。練習不足が気になりますが、今年は今年のペースで、ホノルルの景色を楽しみながら、ゴールを目指して走ってきます!
V3のサインが出来ますように…

膵島移植について思うこと 2004.11.30

院長メッセージ
2004年11月30日

11月27日、当クリニックにて第1回ヤングセミナーを行いました。京都大学移植外科の野口洋文先生に”膵島移植”についてのお話をしていただきました。
野口先生のお話は、基本的な膵島細胞の働きから始まり、実際に京都大学付属病院で行われた移植風景を、動画を用いて、大変わかりやすくリアリテイーのあるものでした。患者さんたちは皆、身を乗り出して聞き入っていました。一人一人の質問にも具体的に丁寧に答えてくださいました。
また、御自身の黄色いドナーカードと携帯電話、運転免許証、保険証の裏に張ってあるドナー証明も見せていただきました。

個人個人で受け取り方は違うかもしれませんが、”膵島移植”という治療が、1型糖尿病の今最も新しい治療法であること、インスリン注射を離脱する、患者さんにとって最も侵襲の少ない手段であることは確かです。1日でも早くインスリン注射から解放されたい方、インスリン注射をしながら元気な生活を送っているので必要ないと思っている方、さまざまだと思います。わたしは、1型糖尿病治療の選択肢の一つとして今後考えていきたいと思っています。

私が1型糖尿病になった27年前、「一生インスリン注射が必要です」と言われました。つい数年前まで考えられなかったことが、実際の治療として行われています。”移植”は多くの患者さんに提供できる治療ではないので、実際私がどの選択をするかまだわかりませんが、いつの日かインスリン注射をしなくてもいいような、そんな夢のような日が来るのかも知れないという希望をもって生きることが出来るようになりました。本当に医学の進歩にはめざましいものがあると思います。ただ、その影には多くの医療者や表には出ない研究者の努力があることに、患者としてまた同じ医療者として感謝と尊敬の念を抱いています。

野口先生のご講演でもありましたが、移植医療はドナー(提供者)があってはじめて成り立つものなのです。我々1型糖尿病の患者は、膵臓以外の臓器のドナーにはなり得ることを忘れずに、そして、いただく命とご家族に感謝の気持ちを忘れないようにしたいものです。

そんなことを考えながら、財布から、5年前にかいた黄色のドナーカードを見つめました。私の署名の下に母の署名が記してあります。この母の気持ちを大切に、今ある生命を精一杯生きていこうと思いました。

京都大学移植外科膵島移植のホームページ

http://www.kuhp.kyoto-u.ac.jp/%7Etransplant/islet/

幸せのお裾分け 2004.11.20

院長メッセージ
2004年11月20日

先月、ちょうどもみじが紅く色づきはじめた頃、友人の結婚式に招待され名古屋に行ってきました。彼女(新婦)は2年前まで私と同じ1型糖尿病でした。5歳で発症し、福岡の小児糖尿病サマーキャンプに参加していました。私は16歳で初参加、その時彼女は13歳ですでに糖尿病では私よりずっとベテランでした。こどもの頃から、とても明るくて活発な少女でした。しばらくぶりに会ったのは、私が医師になって、東京から福岡に戻ってきた時でした。その時、彼女は視力がかなり低下しており、腎臓も悪くなっていました。
視力がほとんどなくなったのは27才の時。人生のどん底を味わったという彼女はそこから立ち上り、生活訓練をするするため、大阪のライトハウスで2年間訓練をうけました。すっかり自立し、福岡に戻ってきてからは、私と一緒に食事に行ったり、コンサートに行ったり、そういえば6年前のクリスマスに、彼女の彼(今のご主人)と私の3人で食事に行きました。とってもやさしそうな彼でしっかりあてつけられましたけど・・・。
2年前に膵腎同時移植をうけ、インスリンと透析の生活から開放され(1型糖尿病が完治したのです)、彼女は新しい命と共に新しい人生を歩みはじめました。そして、この春から新しい土地(名古屋)で、やさしいご主人と生活をスタートさせたのです。どんな苦境にあっても、決して明るさと笑顔と感謝を忘れない彼女の生き方にいつも励まされています。福岡を離れて私にとって寂しくなりましたが、新たな土地でご主人といい友人たちに囲まれて、とてもとても幸せそうでした。最初から最後まで、ずっと笑顔と笑いにあふれた結婚式、私も幸せのおすそ分けをいっぱいいただいて、とっても幸せな気持ちで帰ってきました。

「彼女のHPを是非ご覧ください。

http://homepage3.nifty.com/sui-jin/index.htm

きっと皆さんも幸せな気持ちになりますよ。

〒815-0071 福岡県福岡市南区平和1-4-6
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